春とエゴ
自分の中に芽生える感情が全部、心底気持ち悪くなってしまう時がある。
このアスファルトの道は歩きづらいな、とか思ったことを全部が全部、本当に些細なことまで、許せない程に気持ち悪くて仕方なくなる、そんな時期がここ数週間ぐらい続いていた。
自分自身に中指を立ててしまう現実が、他人を自分の人生の登場人物ぐらいにしか捉えられないような傲慢とも取れる稚拙さが、誰かといれば最低な今この実状が紛れるような気がした。
それも束の間、寝る前に布団の中で一日の会話を反芻しては、今日出会った人が一人ずつまた他人に戻っていくのが悲しくて、言葉通り涙が枯れるほど泣くことを幾度となく試した。
夜明け前の時間がいちばん、暗くて冷たいことを詩の中で学んでいたし、春先なんか特に、この肌で感じてしまう。
文章にだってたくさんしたけど、誰かに読まれることを意識したそれは、一言で言い表すとすれば「汚物」にしかもう見えなくなっていた。
だけど面白いのが、こんなに最悪な状況を打ち明けた友だちに「最近SNSの内容おかしかったもんね」なんて言われてしまったこと
久しぶりに、こんな自分を笑えた気がした。
傍から見れば何ともないようなことを、ぎりぎりのところから無理やり更新していたつもりだったから、お見通しなことがあまりにもダサく感じて全体的に少しどうでもよくなった。
自分のやることなす事が自分で受け入れられないなら"私がやりたくてやってる"と開き直ればいいよ、と教えてくれた。
これは誰かの受け売りだから、と話してくれたけど、言葉はきっと奪ったり奪われたりするものでもなく、何百年何千年と受け継がれていくものだから、すでにもう彼女の言葉として、彼女の声で、温度で、その一瞬の中に完成されたものだった。
このブログを書く事だってとても時間が掛かったけど、私がやりたくてやっていること。
数日経った今も、胸の裡でその言葉を唱え続けている。
桜が咲いて、昼間はもうすっかり暑くなってきた。
このまま夏が来ればその時はその時でまた別の悩みが生まれるんだろうが、今この季節が安定するまでは、きっとしばらくこんな感じだろうと覚悟している。
尖り切った自意識が、誰かを傷つけるようなことだけはもう、あってはならない。同じ間違いを繰り返すくらいなら、何もかもいっそやめてしまおうとすら思うことがあるけど
そんなところまで思い詰めてしまうのも、きっとよくないと今ならわかる。
「私なら大丈夫」好きな音楽に触れて、好きな絵画に触れて、活字に触れて、確かにそう感じた瞬間を、何度も見失いそうになる未熟さ
何十年後の自分がそれを若さと呼んでくれたら、いい。
百歳まで生きる、という図々しい目標が私にはあります。
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