わたしのオカルト / 言葉はいつも少し嘘
人間関係も、自分が今いる場所も、景色は変わらないようでどんどん移ろいゆくけど、目まぐるしいのにとてもスローモーションに見えて時々無性に泣きたくなる。嬉しいとも悲しいとも違う、名前のない感情。
将来おばあちゃんになったら、引き剥がされていく瞬間の痛みとか忘れていくのだろうか。本当に、いつかあんな風に穏やかになれる?
少しずつ、バランスが崩れていく気配。気づいた人から不安になって、最後には誰か一人くらいいなくなってしまいそうな。
もう帰って来ないかもしれない。私は多分ずっと、ここにいるけど。この場合の正解はきっと、私がここを出ていくことなんだろう。
事実はいつも鮮明で、向き合うと怖くなった。ここ最近の孤独感やそれに纏わる強烈な眠気、逃れようとした報い、嫌な予感というのは必ず当たるように出来ている。
小さな文庫本の中に不安な気持ちを閉じ込めたり、植木に水を飲るみたいに一人で泣いたりしながら、くだらない妄想や決めつけで見る光景に対処して、何とか上手くやってきた。
コツとしては、子どもの頃の孤独感に引き戻される瞬間こそ、こころが温まる小説が読みたい。
"小説は、生きている。"その一節に救われていたから。
今となってはこんな風に、帰る場所は自分で選べるし、新しく用意することだって出来るということを、あの頃の自分に教えてあげたくなった。
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- 240324
普段ライブを観て泣くということが私はあまりなくて、どちらかと言うと元気とか勇気を貰って栄養満点の状態で帰るタイプ(コロナ禍で、アイドルにハマり出してからは特に)だったのですが、
先日久々に寝屋川に周年祝いと先輩のワンマンライブを観に行って、一曲目から涙が出そうになったです。
気を取られたくないから堪えていた。けど我慢しても繰り返し溢れ出す。涙って本来こういう流れ方をするんだ、とかまた、誰にも理解されないような言語が組み立てられていくから、思考を振り切ったら何か自分の場所に帰ってきたような感じがした。
また、帰ってきたくなった。ここにいてもいいんだと感じられるような時間だった。
ありのままの自分でいられるって、こんなに幸せなことなんだ。
不器用な自分を呪いたくて、なれやしないのに感じの良い人になりたくて、前だけを向いていなくちゃ周りの人は離れていくような気がしたから唯一、自分と向き合える時間だった文章すらうまく書けなくなって、暗くて冷たくてほんとうに風邪を引くかと思った(病は気から)。
言葉はいつも少し嘘で、発する言葉とその原産地である心の間の溝というのは、どこまでいっても埋まることはないけど、この先どんなに経験を積んだとしてもそれはそういうものだと思って、受け入れているけど
本当に大切なことを簡単に言語化できないのに、音楽にしてしまうとどこまでも真っ直ぐ響く感じがするのは不思議だなぁ。
表現していくことを、もっと自分に素直に楽しめたら、きっともっと進化していけるような気がした。
p.s.
先日、久々に会う友人達と心斎橋の街を朝帰り中に見つけた、頭の中みたいな解体現場
まりおんが思いつくことは変なことなんかじゃないよ、だって思い付いたんだから!って言ってくれたのがずっと心に残っています。宝物になっている。
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