せかいのしくみ
おそらく世界の仕組みはとてもシンプルで、かといって知ったかぶりをしてしまうと離れていくような感覚もあるのが怖かった。今この瞬間を受け止めてどれだけ反芻しても、いくつになってもコツなんて掴めない気がしている。それでいいのだということはここ数年の間にようやく分かってきた。
少しの矛盾を孕んでいるくらいの方が後々辻褄が合いやすかったり、その瞬間にこそ人は心の成長痛みたいなものを感じたりもするのだろうか。
人間の身体はただの容れ物に過ぎないこと、ずっと感じていたから、最近読んだ小説の中で似た感覚の言葉を見つけた時は嬉しくて、同時にこれを書いてくれる人がいるなら、私はもう大丈夫なんじゃないかとも思った。
でもこんなに温かい気持ちになれるなら、日常を超えた先に何か、まだ書ける曲があるはずだ。徐々にそれに気がついた時、目の前を流れる何でもない時間がきらきらと輝いて見えたな。
私が思う良いライブというのは、色んなことを考えさせてくれる。その隙間を与えてくれる。不安は尽きないからいつも最悪の結末ばかり心配していて、でもライブハウスでは目の前で繰り広げられる瞬間瞬間に釘付けになっている間に、一番大事なこと(とてもシンプルな今この瞬間のこと)が近づいてくる。
生き急いだ心が身体にかえってくる感覚というか、これがもしライブや小説じゃなくて人間だったとしたら、そういう安心感のようなものを恋と呼ぶようになったのかな、とか考えたりもした。
あくまでも私にはそういう風に作用したというだけだが、まだ見ぬ先のことばかりに思考を送っていては、未来のことを考えているつもりがいつの間にか一人だけ退化してしまう。
先日から連続してブログに書いているような気もするが、いつも何かに護られている気がする、この感覚が私は好きだ。他人に愛情を伝えることは何も怖くない。図太いわけじゃないんだよ、そういうものだと心得ている。そこが図太いのか?
その感覚とは多分、幼稚園に入る年齢よりずっと幼い頃、冷たい冬の朝に布団の中で姉に抱き締められた記憶のことだと思う。目覚めた瞬間に泣き出すところを、その温もりに身を委ねて穏やかに目を覚ました記憶。常に不機嫌な子どもだったので、とてもめずらしい朝だった。
大人になった今、夜の風に揺れる木々の音が聴こえてきたり、金木犀の匂いが漂ってきても、あの頃と同じように感じられる。柔らかい何かにいつも、包まれている。
美しいものを美しいと感じられる心を、誰が教えてくれた生き方かはわからないが、大切にしたいと思う。
さもないと、明日にも何が起こるかわからないこんな場所で、未来を生き延びていける自信がない。
みんなそうやって、それぞれのやり方で様々な不安要素をごまかしているんだろうと思う、実際に気付いていないから、気づかないふりともまた違うわけだけど、私は自分とは違うそのやり方に憧れているだけだ。
私は私のやり方で向き合っていくとしたら、どうしても今、紅葉を観に行かなくてはならない。
去年は見られなかったので、この秋、必ず叶えたいと思っている。
p.s.
先日久々にBRONZEへ遊びに行った!アメ村は相変わらずであった
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